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那覇公演レビュー『他者の複数性/複数の他者性(試論)』
文・町田恵美氏(エヂュケーター)

 その日、演劇の開演までに余裕があったので、わが街の小劇場からほど近い桜坂劇場にてちょうどいい時間帯に上映していた『国葬の日』を観た。2022年9月27日に射殺された元首総を弔う国葬の日に、全国各地の人びとがどう過ごしたかを追ったドキュメンタリー映画である。沖縄では辺野古新基地建設前で国葬反対デモを行う人の姿を捉え、かたや千鳥ヶ淵の献花会場では長蛇の列が映し出されていた。画面越しから、政治に対する意識の濃淡と“なんとなく”で語られがちな日本社会の空気が伝わり、少しの息苦しさを覚えながら会場に向かった。

『東アジアのさようならにまつわる妙な人々(試演)』(作:神里雄大)は、11人の登場人物が出てくる。公演地は沖縄の他に、ブラジル、長崎、その後ペルーを予定していると聞く。それぞれの話が緩やかに重なりながら、物語、そして作品そのものが展開されていく構成だ。
 沖縄公演に登場した新垣光は、自身を某首相の子どもだと思い込んでいる。彼女(or彼)がマッチングサイトで知り合った相手に会いに大阪に行くタイミングで「ちょうど元首相が隣の県にやってくると聞いて、いまこそ会いに行こうと思ったのだった。」というくだりは、冒頭の映画の発端と言える事件が起きた日を連想させる。また、県外から移住してきた小川夫妻のエピソードは、ある種の疎外感を描いている。わたしは移住者ではないが、いわゆる沖縄らしい苗字(比嘉、金城、新垣とか)ではないため、よく移住者に間違えられる。先祖の代に本土との同化政策による「改姓改名運動」で、本土風の苗字になったいきさつがある(ちなみに以前は「勢理客(じっちゃく)」、浦添にある地名と同じ)。
 沖縄では、出自をめぐり“沖縄か否か”という場面にたびたび遭遇する。それは、帰属意識のあらわれとも言えるが、そのふるまいは時に他者との線引きを促すようにも思える。かつて琉球という一国だったというアイデンティティの強さもあるかもしれない。沖縄は廃藩置県により日本に併合され、さらに日本の敗戦によりアメリカの施政下に置かれた。強いられた歴史のなかで育まれた沖縄のアイデンティティには、抵抗の精神が根底にあり、アメリカと日本の狭間に翻弄され、矛盾と葛藤が相克しながら独自の混成文化を形成してきたのである。
 いっぽうで、琉球王国時代には中国をはじめとする諸外国との貿易が盛んであったし、外からの侵入、支配のみならず、移民として海の向こうへ渡った歴史もある。労働力としての移動が主だが、何世代にもわたりその地に定住していく人びともいる。あらたな土地で生を受けた移民の子どもたちは複数のアイデンティティを持つことになり、言語の問題も大きい。そこには、起源(roots)と同じくらい経路(routes)の重要性がある。
 本作における言語の使い方は、そうした人物の背景をあえてぼやかしているようにも見える。Googleの翻訳機能を使い、原文となる日本語を別の言語に変換し、それをふたたび日本語に戻す過程で、言語は微妙にニュアンスが異なってくる。こうしたズレは、はたして言語だけの問題だろうか。日常においても同じ言語を使う相手に考えを伝え、相手の考えを受け取ることの難しさに直面することはままある。そこには、同じ構造に従属するアイデンティティとは異なる他者性を孕んでいる。他者は差異と同義とも言えないか。
 演劇は他者を演じる場でもある。台本に書かれた内容は、役者を介してわたしたちに届けられる。今回のようにひとりの役者が複数の人物を演じる場合においては、複数の他者性をひとりの人物から受け取ることになる。ここでも翻訳の機能は働き、役者を介したテキストは必ずしも作者の意図のまま観客に伝わるとは限らない。また、役柄によって変わる主体性の在り方に、演者も鑑賞者も自己のなかにある他者の存在に気付かされるのだ。

 わが街の小劇場は小さな箱である。おのずと演者と観客の距離は近くなる。その小さな空間で、(沖縄公演前の)ブラジルでの公演映像が流れ、窓辺の音声を聞き、机に置かれた(沖縄公演後の)長崎公演用のテキストを読む。同時に中央では、沖縄の俳優上門みきがパフォーマンスを演じている。幾つもの要素が詰め込まれた会場を縦横無尽に行き来しながら、小一時間程度の時間を過ごすうちに、わたしもまた一時的に「妙な人々」のひとりとして組み込まれていたのかもしれないと振り返る。

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まちだ・めぐみ
沖縄県立博物館・美術館の学芸員を経て、現在沖縄を拠点に県内外のプロジェクトに携わる。



長崎公演レビュー『混沌の空間の中で、浮き上がっていく、妙な11人の世界』
文・小川内清孝氏(フリーライター)

 神里雄大さん作・演出の『東アジアのさようならにまつわる妙な人々』(試演)に参加した。今回は「観た」というより「参加した」という表現がピッタリだろうと思う。

 この作品に登場するのは国内外の11人(今後、増える可能性あり)の架空の人物たち。それぞれが直接的あるいは間接的に関係しているという。
会場内では、パフォーマンス(実演)、映像(他会場の試演の様子、音声なし)、音声(ヘッドホン使用)、貼り出されたテキストの4要素を通して、11人のキャラクターと物語を紹介していた。また、会場外の廊下には関連写真が何枚か貼り出されていた。補填資料として登場人物たちの関連年表ももらった。
 参加者は会場をぐるぐる回り、思い思いに11人の登場人物のリサーチを行うという手法のようだ。その合間に公演地出身の俳優(長崎県対馬市出身の森岡光さん)が地元に関係する何人かの登場人物を演じていった。

 個人的におもしろかったのは、テキストが原文と、その原文を外国語に翻訳しそれをまた翻訳機能を利用し日本語に翻訳し直したものが、同時に貼り出されていたこと。翻訳された日本語は、外国語と文法の構造が違うためか、どこか妙な表現もあった。例えば、YouTubeなどの外国映画に字幕機能を使って観ると、奇妙な翻訳が気になって、どこか映画本編にのめり込めない感覚と似ていた。

 映像会場で外国人の下着姿の男(ファンジ/サンパウロ)がリズミカルに飛び跳ねている音声のない映像を見ているときに、客席ではパフォーマンス(朗読)が始まったので、同時に見聴きすることになった。パフォーマンスの登場人物は、下着男とは別人で、日本人女性(森千紘/那覇)だった。まるで無声映画をまったく別の物語の活弁で聴くような感覚だが、リズミカルな映像と森岡さんの声が、私の中でなぜか違和感なく溶け合い、ゆるく世界のつながりや一体感を感じた。たぶん私の個人的なアンテナかセンサーが反応したためだろうが、新鮮な感じがしておもしろかった。

 それから、その国や地域の出身ではない作家の神里さんが、滞在とリサーチを重ね、地元出身の俳優たちと国境を超えた作品を創り上げていこうとする点は興味深かった。これは神里さんの人生や生き方から発想されるもので、誰かが真似しようと思ってもなかなか出来ることではないとも感じた。

 今回の物語の舞台である対馬市ひとつとってみても、韓国との国境の島、自衛隊の駐屯地、朝鮮通信使との交流の歴史、新鮮な魚介類の宝庫、住民を二分したといわれる最近の核ゴミ処理地の調査問題など、扱うテーマ候補はたくさんあっただろう。そこに作家と地元出身俳優の独自の視点が入り、登場人物たちの生き生きとした不思議キャラクターが創造されていくのだろう。ただし、今回の対馬市関係の登場人物と前出のテーマはあまり関係がないようで、別の意味の男女間の日韓交流もどきはあったみたいなのだが、それはもちろん是として、さて、本公演ではいったいどう展開していくのだろうか。

 余談になるが、私は仕事の関係で、歴史や観光のガイド本編集の取材で、対馬市を数度訪れたことがある。その頃知った「朝鮮通信使」、「対馬アリラン祭り」、「雨森芳洲」、「宮本常一の〈対馬にて〉」などの懐かしいワードが、冒頭の自己紹介やアフタートークで森岡さんの口から飛び出したのが、一瞬対馬市情報を共有できた仲間意識を感じて、とても嬉しかった。その際、民族学者の宮本常一(みやもと・つねいち)の読み方を森岡さんが「じょういち」と間違って覚えていたのだが、神里さんが即座に「つねいち」と訂正したときは、地元出身俳優と外部作家間の修正機能や互換性がうまく働いているようで、このエピソード一点だけをとってみても、新しい作品を創る意味と意義があるなと感じた。そんな気づきや共感が、参加者の数だけ溢れ出て満たされていく作品なのだろうとも思った。

 アフタートークで出た、11人を野外会場に集めてフェス形式の公演もいい。世界の料理が並ぶ屋台の登場もおもしろそうだ。
 今回の『東アジアのさようならにまつわる妙な人々』試演が本公演にどう生かされていくのか。11名の登場人物たちはそれぞれの会場でどうつながっていくのか。国内外各地での試演で得られたものや気づきを神里さんがどうまとめて料理していくのか。新作のより斬新な今後の展開に期待したい。

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おがわうち・きよたか
長崎市在住のライター&エディター。主に出版物・冊子の取材原稿執筆や編集、舞台やイベントの脚本・シナリオ制作などを手がける。
主な編集書:長崎游学1『原爆被災地跡に平和を学ぶ』(長崎文献社)、長崎県企画『旅する長崎学』1、4、9、12、15号(長崎文献社)、『クラゲに学ぶ』(下村脩著 長崎文献社)、『チンドン大冒険 ボクがチンドン屋になった理由』(河内隆太郎著 長崎文献社)、長崎OMURA室内合奏団会員情報誌『パトロネージュ通信』
主な著作書:『赤い花の記憶 天主堂物語 舞台裏』(長崎文献社)、『長崎偉人伝 永井隆』(長崎文献社)
主な脚本・シナリオ:ミュージカル『OMURAグラフィティー』脚本、ミュージカル『赤い花の記憶 天主堂物語』脚本、平和朗読劇『今は春べと咲くやこの花』脚本、平和映像作品『クスノキは知っていた 〜被爆者の記憶〜』『女性たちの原爆』シナリオ(国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館)、雲仙温泉『湯にも地獄の物語』ナイトツアーシナリオ(雲仙観光局)、音楽童話『セロ弾きのゴーシュ』脚本、紙芝居『チンドンひまわり一座物語』、『直也の自由研究 来年の長崎くんちばもってこーい!』シナリオ(チンドンかわち家)


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